2012年10月28日
マッコリでふらふら
深夜、雨がしとりしとり。
宵からの酒が飲み足りなくて、マッコリが飲みたくなって、しょぼしょぼと近くのコンビニまで買いに出かけた。
若いころ、なぜだか、ジン・ライムにとりつかれて当時は缶入りなんて便利なものがなかったから、原宿とか渋谷とか、ちょっとしたカクテルバーやスナックめいた店にわざわざ出かけて、ジン・ライムばかり追加追加で飲みほうけていた頃を思い出す。
そうだ、ジン・ライムの次はジャックダニエルのハイボールにはまってしまって同じ道を泥酔の一歩二歩三歩を、あっちへふらふら、こっちへよろよろと深夜でも賑やかだった都会の喧騒の中を一人歩いていたことをも思い出してしまった。
まったくもって私の記憶は酒と共にあるという、素敵さというか、悲しさというか……。
あの頃、あんな阿呆な階段を行ったり来たりしないで、もう少し世のため人のためになるように努力をしていたならば、今の私はもっときちんとした人間になっていたであろうものを……。
はかない夢ではある。
こんなことを書くと、今の私の家族のご面々は、きちん生きることに失敗した、どうしようもない人間である私とご同道いただいているという事実に及び至りて、私は二重三重の苦悩に陥らざるをえないのだけれども、ダメななりにそこそこの人間的な機能は有しているとの勝手な自負は多少なりとも状況判断的にありえて妙なるがゆえに、まあ、いいか(いい加減、酔っぱらいなワタクシ)。

甘い酒は本来好きじゃないけど、時として惹かれてしまう時代が私にはある。
それが今はマッコリ。
はんなりと甘い酒を飲んでいると、ビール及び、それに類した苦い酒と縁を切りたくなる。相反するものだから仕方はない。
でも結局、甘さとアルコールは難しい相性関係にあり、しばらくするとビール及び、それに類したものか、さもなければ、普通の焼酎に戻ってしまうことはわかっている。
どっち転んだとて酔っぱらいの夜が開演するだけの話だが。
酒のない国に行きたや、さればとて、酒のない国に安住できる自信などなく、「ああ、私はアル中なのか」とため息も出ようかというものだ。
イスラム教に入信すればどうだ……なんて発想は、アラブの方々に失礼にあたるだろう。
ワインはキリストの血だなどと素敵なことを抜かすキリスト教の魅惑には私は勝てん。
仏寺では、酒は般若湯だ。
葷酒山門に入るを許さずというたとて、般若湯という名文句を作ったのは、山門内の人たちでしかなかろうから、あまり目くじらを立てるものじゃない。
ちなみに「般若」とは、『摩訶般若波羅蜜多心経』というお経まであるくらいで、梵語だかパーリ語だか、いにしえのインドの言葉では「パンニャ」すなわち「知恵」を意味しているので、ああ、だから酒に酔うと脳味噌の回転が早くなり素面では思いもよらぬ名案も浮かぶものかと、つまらぬ納得をしてみたり、だが、それは単なる言い訳だと苦笑してみたり、人生とは世界とは不思議なものだ。
奈良の法隆寺近くの茶店でビールのことを「麦般若」を舌代してあったのには笑ってしまったよ。
教会や修道院がワインの醸造もやっておるという、キリスト教には逆立ちしても勝てぬけれど。
ま、何だ。
酔っぱらいのペダントリーは、この程度でおやすみなさいするのが、ちょうどよいかしらん。
宵からの酒が飲み足りなくて、マッコリが飲みたくなって、しょぼしょぼと近くのコンビニまで買いに出かけた。
若いころ、なぜだか、ジン・ライムにとりつかれて当時は缶入りなんて便利なものがなかったから、原宿とか渋谷とか、ちょっとしたカクテルバーやスナックめいた店にわざわざ出かけて、ジン・ライムばかり追加追加で飲みほうけていた頃を思い出す。
そうだ、ジン・ライムの次はジャックダニエルのハイボールにはまってしまって同じ道を泥酔の一歩二歩三歩を、あっちへふらふら、こっちへよろよろと深夜でも賑やかだった都会の喧騒の中を一人歩いていたことをも思い出してしまった。
まったくもって私の記憶は酒と共にあるという、素敵さというか、悲しさというか……。
あの頃、あんな阿呆な階段を行ったり来たりしないで、もう少し世のため人のためになるように努力をしていたならば、今の私はもっときちんとした人間になっていたであろうものを……。
はかない夢ではある。
こんなことを書くと、今の私の家族のご面々は、きちん生きることに失敗した、どうしようもない人間である私とご同道いただいているという事実に及び至りて、私は二重三重の苦悩に陥らざるをえないのだけれども、ダメななりにそこそこの人間的な機能は有しているとの勝手な自負は多少なりとも状況判断的にありえて妙なるがゆえに、まあ、いいか(いい加減、酔っぱらいなワタクシ)。

甘い酒は本来好きじゃないけど、時として惹かれてしまう時代が私にはある。
それが今はマッコリ。
はんなりと甘い酒を飲んでいると、ビール及び、それに類した苦い酒と縁を切りたくなる。相反するものだから仕方はない。
でも結局、甘さとアルコールは難しい相性関係にあり、しばらくするとビール及び、それに類したものか、さもなければ、普通の焼酎に戻ってしまうことはわかっている。
どっち転んだとて酔っぱらいの夜が開演するだけの話だが。
酒のない国に行きたや、さればとて、酒のない国に安住できる自信などなく、「ああ、私はアル中なのか」とため息も出ようかというものだ。
イスラム教に入信すればどうだ……なんて発想は、アラブの方々に失礼にあたるだろう。
ワインはキリストの血だなどと素敵なことを抜かすキリスト教の魅惑には私は勝てん。
仏寺では、酒は般若湯だ。
葷酒山門に入るを許さずというたとて、般若湯という名文句を作ったのは、山門内の人たちでしかなかろうから、あまり目くじらを立てるものじゃない。
ちなみに「般若」とは、『摩訶般若波羅蜜多心経』というお経まであるくらいで、梵語だかパーリ語だか、いにしえのインドの言葉では「パンニャ」すなわち「知恵」を意味しているので、ああ、だから酒に酔うと脳味噌の回転が早くなり素面では思いもよらぬ名案も浮かぶものかと、つまらぬ納得をしてみたり、だが、それは単なる言い訳だと苦笑してみたり、人生とは世界とは不思議なものだ。
奈良の法隆寺近くの茶店でビールのことを「麦般若」を舌代してあったのには笑ってしまったよ。
教会や修道院がワインの醸造もやっておるという、キリスト教には逆立ちしても勝てぬけれど。
ま、何だ。
酔っぱらいのペダントリーは、この程度でおやすみなさいするのが、ちょうどよいかしらん。
Posted by MU-U at 01:32│Comments(0)
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